2024/5/21更新


篠束神社空撮



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2024/4/20・21




ごあいさつ


 此度は篠束神社ホームページをご覧頂き誠に有難う御座います。また日頃よりお寄せ頂くご厚情に感謝を申し上げます。

 

 「篠束」というこの地の名を社名に頂く当社は、大国主命と速須佐之男命を主祭神として祀り、古く平安の時代からこの土地の人々に氏神として崇められてきました。

 また疫病除けの神とされる蘇民将来を祀る神社は愛知県東部地域では当社のみで、一月に斎行される蘇民神社大祭では町内各戸に護符を授与しています。これを「神様が御渡りになる」と言い、古くから受け継がれてきた特殊神事です。

 

 しかし誠に残念なことに、宝蔵の雨漏り等で多くの資料を損ない、社史に関する貴重な記録が失われました。当社はこの土地の先人等が守り継ぎ今に至る小さな神社であります。私共のようなお宮の歴史や行事を如何に広く知って頂き、如何に後世へ伝えてゆくかは一つの課題でありましたが、此度、豊川市史等の資料や地元の人々の口伝等で受け継がれてきた数々の「お話」を当社ホームページ内「デジタル宝蔵」に納めることと致しました。神事行事と併せ、ご覧頂ければ幸甚に存じます。

 

 神社は祈りの場とされますが、祭りなど地域住民の皆様が集い、和をなす場でもあります。この地域とこの神社を長く粛々と守ってきた我々の祖先等に感謝し、またこれから先、この土地で暮らす皆様に引き続き安らかな場として参拝して頂けるよう、そして当社ホームページをご覧頂いた遠方の皆様に興味をお持ち頂けるよう役員一同神明奉仕して参りたいと存じます。

篠束神社 宮司 伊藤 雄康


篠束神社の由緒


祭神  大国主命(おおくにぬしのみこと)

     須佐之男命(すさのおのみこと)

創立  長徳元年(995)以前

祭日  4月第3土・日

 当社は鎌倉時代に編集された『三河国内神明名帳』に「神明二十二所 従四位下篠束明神 坐宝飫群」とあって、篠束明神と称えていた時代があった。祭神の大国主命は随分以前から祀られていたが、創始縁起については明らかでない。

 須佐之男命は、一条天皇の長徳元年(995)に合祀せられたと伝えられている。須佐之男命の合祀せられた理由として、当時この地方に疫病が大流行して多くの人が続々と死に、人々はその恐怖に襲われていた。そこで須佐之男命を勧請して、お祀りしたところ忽ち悪病が治まったという。

 また、この勧請の折、神坂で一行がしばらく休憩していた時、松の大木に数多くの白鷺が飛んで来て松の緑も見えなくなり吉祥とされた。それ以来この松の大木を「鷺栄の松」(鷺坂松)といい、神坂を鷺坂ともいうようになったと伝えられている。

 延元年中(1336~1340)篠束伊賀守が、当社の乾(北西)の方向に城を築いた折に、本殿・楼閣・鐘楼・瑞垣・築地などを修造し、神領八町余を寄進したと伝えられている。ところが、永禄年間(1558~1570)に兵火にあい灰燼に帰したので、翌年従来より小さいが、新たな社殿を造営し牛頭天王と社号を称えた。明治二年神号改めの折に天王号を廃し、篠束神社と改称した。

 江戸時代には家康の禁制札を下付されたり、社領十国の朱印を受けていた。


蘇民神社の由緒


祭神 蘇民将来(そみんしょうらい)

祭事 ・大祭「御出幸祭」と「厄祭」

     1月11日前の日曜日

    ・御還幸祭

     4月1日

    ・御鳥居前神幸祭

     12月29日前の日曜日

 蘇民神社は、篠束神社の末社で蘇民将来を祭神としてお祀りしている。須佐之男命(武塔天神)が、諸国を巡回した折、日が暮れたので将来という兄弟に宿を乞うたところ、裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)には断られたが、兄の蘇民将来はきわめて貧しいにもかかわらず、快く泊め粟の飯を炊いてもてなした。須佐之男命はこれを喜び、お礼に「われは須佐之男命の神なり、後の世に疫病あらば、汝、蘇民将来の子孫と言って茅の輪を腰に着ければ疫病から救われる」と告げて立ち去った。その後、疫病が流行したが、蘇民将来の一家は救われたと伝えられる。

 この故事により、蘇民将来は疫病除けの守護神となり、後には疫病除けの御符(お札)を指すようになった。当神社では、毎年一月十一日の前の日曜日に、蘇民神社の神像を木版刷りにしたお札を、大字篠束の家庭に配布する。これを「神様がお渡りになる」と言い、このお札は各家庭の神棚に祀られる。このお札は希望する近郷の人々にも分けられる。